今朝、気づいたこと。
わたしの根源的苦しみは、「わたしがわたしである」ことが苦しいという苦しみ。
「自同律の不快」と、戦後派の作家・埴谷雄高が言った苦しみだったな、とも思い出した。
「わたしである」ということが苦しい。そういう苦しみ。
そして「わたし」とは、単に、この僕、自分をさすものではなく、
一人称という普遍的なものだ。
つまりぼくの「わたし」とあなたの「わたし」は同じなのだ。
あるいは、少なくとも「わたし」を自分だと勘違いすると、
苦しくなる。
なぜなら「わたしである」ということが苦しみだから。
だから「わたし」を自分だと思っている限り、
苦しみは続くのだ。
「わたしはわたしである」
「わたしはわたし以外のなにものでもない」
この「わたし」という限定が生み出す苦しみから
目をそらさず、逃げ出さず、「わたし」という苦しみを苦しむことが、
「わたし」からの解放につながるという予感がある。
なぜなら、「わたしである」ことの根源的苦しみと向かい合いたくなくて、
その苦しみと向かい合うのをさけ、ごまかし、紛らわすために、
「わたし」はいろいろな活動をし続けてきて、あらゆる手をつかって
逃げ回ろうと全力で努力しているにもかかわらず、常に苦しみは、すぐそこに待ち受けていることを知っていてるのだから。
それは、まるで自分の影を振り切ろうとして必死で走り続けて、息も絶え絶えになっているようなものなのだから。
もはや、残された手は、逃げる足を止めて、振り返り、背後にいつも迫っている苦しみと向き合うしかないのだから。
「わたしがわたしである」ことの苦しみを苦しみとして苦しむ。
それは、どこまでも追いかけてくる苦しみから逃げ続ける苦しみとは違って、
リアルであり、具体的で、確固としていて、安心できるものだ。
私は数十年も前から常に、満足したいと刺激を追求め落着かない。そして何も満足が得られないしさまよい続けて何をしたらええかも結局はわからなくなってきた。とりあえずいつも新しい風に、特に人が多く集まる偉大なことに首を突っ込む。しかしくだらないことやさびしいことには足を運ばない。だってそこには素朴で素敵な友人がいるかもしれないが、わたしは友人付き合いなんかよりもイベントの雰囲気が好きだから。そのためわたしはとても広く多く友人はいるけれどすべてう薄っぺらの付き合いが多い。わたしは人ではなく多くの人々とのスピリチュアルな雰囲気とお付き合いしているのだ。いつも漂う雲のように何かしら大きな意義のありそうな想念の中でわたしは大勢の人々との一体感を味わい消えていたいと思う。そう、わたしは夢と一体化している。これがわたし流のワンネスだ。夢は気持ちいい。
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