チェルノブイリの祈り―未来の物語
長い間、小説、文学書を読んでいなかったのけど、ひさしびりに文学を読んだ。
21世紀のロシア文学。
1986年におきたチェルノブイリ原発事後の10年後に、事故に被災した人たちの元を訪れ、話を聞いたインタビュー集。
チェルノブイリの事故で、ヒロシマ原爆の350倍以上の放射能が放出され、ベラルーシの国土の90%が汚染されたのだそうだ。
チェルノブイリで起こった現実は、わたしたちの想像力、理解力を超えている。
その現実を体験した人が語る言葉は、もう「祈り」としか形容できない響きを持っている。
だから、一度にたくさんのページは読めなかった。ぼくは、電車の中で短編集や詩集を読むように読み継いだ。
そして、ふと本から目を上げ周囲の電車の風景を見た時、いいようのない感覚にとらわれた。
電車の中のありきたりな世界が、何かのきっかけで、本の中の想像を絶する世界へと一変してしまう、そういう危険の上に、わたしたちは意識していようがいまいが生きているのだが、そのことを回りの人にどう伝えればよいのかわからない。
この本をプレゼントしてくれたのは、環境ネエルギー政策研究所の大林さんだった。
彼女が黙ってこの本を渡してくれた意味がよくわかった。
この本を読むことでしか、彼女が伝えたかったことをぼくは理解することができなかった。
原子力は危険だ。
放射能事故は怖い。
その情報が持つ底知れぬ深さを体験するには、この本を読む必要があった。
アメリカによって日本に原爆が落とされ、ヒロシマ、ナガサキは20世紀の聖地になった。
日本の原爆文学が生まれた。
チェルノブイリもまた20世紀の聖地になった。
そしてここに「チェルノブイリの祈り」がある。
ことばによって表現不可能な体験が、必然的に文学を生み出す。
それは善とか悪とか正義とか不正義とかなにか、そういう日常のわたしたちを縛っているコンセプト、価値判断ではなく、そんなものとは一切関係のない領域のそれだ。
だから、それは、祈りとしか名付けようがない。
この本の副題「未来の物語」も、まさにそうとしかつけられないと正確なものだ(文学とは、正確さへの意志が生み出す、とぼくは信じている)。
未来の物語。
読んでみてください。