他人は自分の鏡であるという事実があります。
人間関係の中で自分が気づいていない自分自身のエゴ、影の部分が現れます。
その部分を他人のせいにすると、実は、自分が問題を創っているということに気づかずに、他人が問題を創っているように思い込みます。
だから、セラピーとかワークショップなどでは、進行役の人が、自分の内側の問題を見ようとせずに他人に問題の責任を押し付けようとしている人に対して、「それはあなたの問題ですよ。自分自身の内側の問題を起こしている部分に注意を向けてください」と介入します。
その介入によって参加者は、いままで気づかなかった自分のエゴ、影の部分に気づき、そのことによって解放が進みます。
さて、ここまではいいのですが、ここからある種の誤用・濫用が生まれてくることが多々あります。
この誤用・濫用は、スピリチュアルと言われている世界、心理的、セラピー的世界を体験したことのある人たちの中でよく起こります。
いまのように大勢の人が自分の内側に問題があるのではないかという問題意識を持ち始めている時代、ますます起こってくるような気がしています。
人と人が対話をしているときに、どちらかが、あるいは、双方が、勝手に「進行役」「介入役」になろうとします。
「それはあなたの問題だ」というわけです。
これをどちらかが言い出したら、対話はそこでストップします。
なぜなら、これを言い出した人は、もはや「対話の相手」ではなく「進行役」「介入役」を演じる人になってしまうからです。
容易に想像できると思います。
あなたが何かを相手に伝えようとします。その何かが特に相手があまりききたくないことだったりすると、いわゆるスピリチュアルなことを学んだり、セラピーの世界を体験したひとは、「それはあなたの問題だ」と言い出します。
こうなるともちろん、対話によって、共通の何かの問題を一緒に解決していくという可能性は絶たれます。
あくまでも「それはあなたの問題」であり、決して「わたしには関係ない」からです。
この手法は、自分に適応するときに効果を発揮するのであって、他人に適応すると、それこそが、「自分の問題を人のせいにして自分の問題を見ない」エゴのやり口そのものになります。
このスピリチュアルの誤用、濫用はいままでも度々あったし、これからますます増えてくる危険性があります。
一番危惧するのは、「それはあなたの問題だ」と言われることで、自分の意思を伝えようとしていた人、個人的ではない問題を訴えようとする人が、自分が間違っているのだろうかと思い始め、自分が感じている違和感、疑問などを自ら抑圧してしまうことです。
OSHOは、世界が変容するために、禅のスピリットがいまでも残っている日本に期待をしていました。
しかし、と同時に、日本人は最も抑圧されている人間達であるという指摘も忘れません。
反逆の禅スピリット。
それは自由自在。
合掌
本当にその通りだね!
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グサッときました。
まさにわたしはこれをやっています…
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この話はある男のエゴ物語だ。
人の世話(対話)をしようとして拒絶されたように感じ、結局「自分は正しい」という態度を正当化している。
〔対話によって、共通の何かの問題を一緒に解決していく〕→一緒に解決出来ないと拒否されたように感じる。
そして、
〔この手法は、自分に適応するときに効果を発揮するのであって、他人に適応すると、それこそが、「自分の問題を人のせいにして自分の問題を見ない」エゴのやり口そのものになります。〕
これがそのまま、ここでも行われている。
助け(対話)を拒絶された自分に適応せずに、その拒絶した相手に適応している。エゴのやり方そのものだ。
言葉ではいくらでも返せてしまう。
禅のスピリットは、言葉ではなく存在であろう。
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ちっちゃいoshoさん こんにちは!
それでも なんとまぁみみっちいね。
「存在であろう」だなんて
僕らの知ってる和尚は そんな風には言わないよ。
それは「存在だ」って 言い切るよ。
「あろう」だなんて・・仮定で、想定ですとは
聞いたことがありません。
お願いだから 弟子をいたぶらないでください。
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お返事を 頂けるのかはわかりませんが
もう一度 先にお願いしておきます。
それに、もし存在を知っているのであれば
「やり取り」とは どのようなものでも
たとえ本物の和尚との間であったとしても
やりとりは エゴのその形態にしか
なり得ないだろうと思われます。
それだから、どうか お見逃しして下さるように
お願いします。
こころから お願いします。
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