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いわゆるスピリチュアルなバトルの不毛さについて

「いわゆるスピリチュアルな誤用・濫用について」に、oshoというニックネームで、URLをhttp://www.osho.comとした人から、批判のコメントをもらいました。


そのコメントに対するコメントを書いてUPしようとしたら、コメント欄には長すぎてUPできなかったので、別タイトルにしてこちらにUPします。
以下はそのコメントです。


まずoshoの名前を騙って語ることの責任の重大さをはっきりと自覚して下さい。

oshoのバイブレーションを知っていますか。
oshoのことを愛していますか。
oshoの愛を知っていますか。

こういうことは、思っている以上にほんとに繊細なことです。
とても意識的にならなくてはならないところです。
oshoのような存在を、ゲームの駒としてどうか使わないでくださいね。


さて、ぼくの文章があなたのエゴのどこかをヒットしたのですね。

あなたはまさしくぼくがここで指摘したとおりの「スピリチュアルな濫用」をしていることに気づいてもらいたいと思っています。

頼まれもしないのに「進行役」「介入者」になっているあなたの動機はどういうものでしょうか。

ぼくはこういう問答を超えたところで、本当のぼくたちの問題をみんなで協力して解決していきたいのです。

ぼくは、こういう問答を散々経験してきていて、そういうものの不毛さをとことんしっています。
スピリチュアルな世界でしょっちゅう起こってきたことで、いまも起きていて、これからもこのままでは起きていくことです。

そして、ぼくが一番危惧している問題、抑圧が起こるのです。微妙なハイラルキーが出来るのです。
自分に適用するべき方法、「それは自分の問題だ」をまわりの同じよう人に適応する人が出てきたとき、その人は権力を揮えるのです。
なぜなら「それはあなたの問題だ」と言われた人たちは「そうか、それは自分の問題か」と思い、自分に罪悪感を持ち始めます。
「それはあなたの問題だ」といったもん勝ちみたいな話です。
いまの権威主義的な世界から自由になろうとしてスピリチュアルな世界に行ったら、そこにはより見えにくい権威主義があって、それは見えにくいがゆえにより危険なのです。

そして、一見変わったようにみえても、結局は何も変わらないのです。

だからセラピーとかワークショップのような「参加者」と「進行役」の役割は、ちゃんと設定された限られた場所で、限られた効果をもつが、それはオールマイティではないということをよく肝に銘じて欲しいと思います。
そういう場所では一瞬の解放体験が起こるが故に、その手法を盲目的に信じ、絶対化しようとしてしまいがちです。そこはほんとに要注意、気をつけて欲しいです。
それはあくまで一つの手段です。
それに縛られたら、なかなか自分では見抜きずらい巧妙な束縛になります。

<以下の文書に対する訂正とお詫び>

それから老婆心ながら付け加えておくと、というか余談ですが、「助け(対話)を拒絶された自分に適応せずに、その拒絶した相手に適応している。エゴのやり方そのものだ」こういう文章って、きびしい禅バトルなんかだとつっこまれちゃいますよ。
「適応」という言葉の使い方が、普通の使い方と違うから、あ~この人は何かのメソッドでものごとを解釈する人なんだな、ってばればれです(笑)。

<この部分、「適応」はぼくが「適用」のつもりで単に間違って使った単語でした。だから、上の文章は、ぼくの勝手な、自作自演な勘違いに基づいた見当はずれの文章です。訂正してお詫びします。自己解説をしておくと、ここはまさに、相手のあら捜しをしてぼくの「あなたは間違っている」と示したいエゴ丸出し部分ですね。それは、「この野郎、おれにケンカ売ってきたな」という衝動から生まれた一連の心の動きとその結果です。それを勘付かれないために「(笑)」という装いをほどこしたずるがしこいやり方です。う~む、自分のエゴを観る機会に恵まれたことに、痛いけど感謝です>


 


 



もっと楽しくいきましょう。

もっとリラックスしましょう。

もっと人を、この場合は、ぼくをもっと信頼してください(笑)
((笑)なんて書いちゃうのは、いかんですが(笑))

そしてもっとおおきなところを目指しましょう。


LOVE

4 comments on “いわゆるスピリチュアルなバトルの不毛さについて

  1. ranjit より:

    ここは、タオのブログなので、タオが好きなこどんどん書いて、タオと友達が楽しく語り合う場所ですね。こちらを読んで思ったのですが、どこの世界でも人にはありがちだけど、特にスピリチュアルな探求世界は、人におせっかいな人が結構多いのかもね。
    誰しも、探求の道において、自分を見る、ということの過程には、場合によってはとても痛々しい体験や苦しみを伴うことが当然あると思います。その苦しみをよく体験して潜り抜けた人や、それに向かう勇気のある人は、真にその痛みを感じ知ってるので、人におせっかいやら、その人のデリケートな面まで干渉し、そこに自論を展開して、あさはかな自己満足などはしないでしょう。静かに見守り、どこまでも謙虚に必要があればさりげなく人を労わるでしょう。

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  2. ドッキー より:

    言葉に力を持てば
    その言葉が作り出す「世界」が生まれ
    その境界の「内」と「外」をつくりだします。
    これは、善悪ではなく、ある種の物理作用のようなもので
    もし、その作用に抗してまで
    更なるホリスティックを求めるとするなら
    この現象をある種の必然と自覚する(受け入れる)と共に
    ある一定の規模にまで、力が拡大したときには
    (内において「ひとつ」であることの効果よりも、
     外に向かって「排他」になることの逆効果が越えるとき)
    一見不合理でも、その内側(コミュニティーや手法)からの離脱(もしくは一定の距離を置くこと)が
    選択肢として求められることもあるかもしれませんね。
    自分の正義や、居心地の良さや、周りの期待や約束などを越えて
    効果と逆効果を見極められる深い洞察が求められるのでしょう。
    タオさんからお聞きした、バガヴァンの態度が印象に残っています。

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  3. YUHAN より:

    表現は自由、しかし価値観を押し付け正義を追求するのはエゴでしかないですよね。
    違う意見を提示してお互いに話し合うということと、一方的に否定的な価値観を残し優越感に浸るのは別物です。
    私はOSHOさんに実際に御目にかかったことはないですが、タオさんとお会いしているだけでOSHOさんの存在、崇高なスピリットを受け継いでいることを感じています。
    そして優しさと思いやりもまた全く別物、それが自我のためにでたものなのか、それとも信頼からくるものなのか、否定をするまえに肯定をしながら価値観を受け入れる器量も修行のひとつではないでしょうか。相手に同じものを求め強制し押し付けるのは甘さと過信からくる負のスパイラルです。陰陽あってこその世界、人もまた同じです。
    タオさんのブログをまた楽しみにしています★

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  4. tao より:

    ranjit、ドッキー、YUHAN、すばらしいコメントをありがとうございます。
    今後も見守ってもらえるとありがたいです。

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