真実が語られているとき、こころは感じている。
その真実は、正しさとか正論とか、合理的であるとか、論理的であるとか、常識的とか、賢さとも知性とも、もちろん知識の量とも関係ない。その人が語る正直さが持つ自ずからの真実さが、こころを打つ。
生きているという実感が生まれている。
真実が語られていないとき、その言葉がどんなに正しいことでも、まっとうなことでも、言葉が費やされればされるほど、こころは上の空になってしまう。たとえ語られたことに納得はしていても、その時間は生きられたというよりは、消化された時間のようだ。
毎日、毎日、そんな真実ではない言葉を聞きすぎて、頭が重くなってしまった気がする。
正直に生きること。
ありのままの自分でただここにいる。
一杯の水を飲むように
一杯の水を飲む。
少ない言葉でよいから真実の言葉を語る。
真実の言葉がないときには黙っていよう。
そのとき沈黙は、真実を語っている。
人は真実に感じ入る。