一年近く毎月2回続けてきたディクシャと瞑想会の会場を、今日から、大塚から後楽園の文京区シビックセンターの和室に移した。
新しい会場にふさわしく今夜は、女性3人の初参加者に、ディクシャインストラクターも2名の初参加があって、いつもの雰囲気、メンバーとは違った。
自分を変えようとすることで葛藤が起こり、それが苦しみになっている。
自分を変えようとする代わりに、あるがままの自分とともにいる。
あるがままの自分をそのまま体験する。
自分の中に苦しみがあることを認めて、その苦しみから逃げ回らず、あるがままに体験すると解放されていく。苦しみが喜びに変わっていく。
そういうことをただ鵜呑みにするのではなく、自分自身の体験の中で本当かどうかを確認していって欲しい。
そんな話しをしてから、みんなで一緒に目を閉じて座り、それから、アーナンダマンダラという7つのチャクラを活性化する呼吸法を行い、そのままディクシャをした。
初めてディクシャを受けたという初参加者3名の人がそれぞれ気持ちよかったと感想を述べてくれた。
最後は全員でハグをして、別れた。
帰りの電車の中で、SoddyのWealth Virtual Wealth and Debtをまた少しだけ読み進める。実際の富とは食料であったり、モノであったり、物理的なモノであるが、お金は、実際に存在しない数字でしかない。しかし経済学は、実際のモノ、実際の富をどう生み出すか、創り出すかということには何も関心を払わず、実際の富を自分のものだと要求するお金にばかり関心を払う。
お金は富ではない。
お金は、富への要求であり、富の不足を表現している。
お金がDebt負債であるというSoddyの主張がなにやら少しずつわかりかけてきたような気がする。
そういえば、本居宣長のいう漢意(からごころ)と大和意(やまとごころ)の違いも以前よりわかった気がする。
今どきの言い方をすれば、漢意がマインドであり、大和意がハートであろう。
この物言いがすでに漢意に近いが、漢意を嫌い、大和意をとる宣長に、偏狭で短絡的な国粋主義者の印象を抱いていた自分の偏見がよくわかった。
感じるこころが大和意であり、分かるこころが漢意であろう。
だからこそ、大和意をしっかりとつかんだあとならば、漢意はいたずらに避けるものではなく、逆によく学ぶべきものであるという宣長の考えもよくわかる。
大和意のない漢意は危険であり、味気ないものであり、小賢しい。
大和意に裏打ちされた漢意こそが、昔も今も必要とされている。
響きとて大和ごころは柏餅