僕もお手伝いしたWorldShiftの本をテトラさんから受け取った。
マーケティングの神さま、コトラーも言葉を寄せている。
野中ともよさんや田坂広志さんも言葉を寄せている。
「WorldShift」というコンセプトで、iPad,iPhoneアプリを作りたいともテトラさんは言った。
ソーシャルメディアであり、メディアでもあるアプリ。
それをビジネスベースで創れると面白いね。
夜は、ディクシャ瞑想会。
9人のこじんまりとした会になったので、瞑想の後は、願い事をかなえるワラディクシャを行った。
それから、近くのヴェローチェでお茶。
Doing(行為)によるWorldShiftではなく、Being(在り方)によるWorldShift。
理念や理想や正義といった目的に基づいた行動によっては本当の意味のWorldShiftは起きえないだろう。
起きうるとしても時間がかかりすぎるだろう。
至福という実感が私たちの中に広がって、その結果、自然に生み出だされるWorldShiftこそが本物で、それこそが実際に起こりうるものだろう。
自分の中に至福が存在することに気づいた人がつながって、至福の空間が広がっていく。
それが一番確実なこの星が再生する道筋だろう。
「愛とは自分のあるがままを受け入れることです」Bhagavan
さて、話は変わるけど、最近、会社組織というのが、時代小説で描かれるような封建的社会そのまんまやなあと痛感して、面白がっている。
会社勤めをして早30年近くになろうとするこの時期になって、いまさらながらにこんなことに気づいて、感心しているのは、まあ、ばかも休み休み言えという具合だろうなあ、と我ながら自分に呆れてもいるのだけれど、事実なのだから仕方がない。
なんというのか、サラリーマン稼業、サラリーマン渡世というやつですか。
江戸時代から変わってないんだろうなあ。
と、いまさらながらに(つまり53歳もすぎて、正確にいうと)そんなことに気づいて、感心して、笑いだしたくなった。
会社で変に一生懸命になっていた自分がアホに思えてきた。
時代劇のようなお芝居の世界で、みんな銘々がそれぞれの好みの役割を引き受けて一生懸命に演じている。
そのお芝居じみた世界を最近まで窮屈に感じ、抵抗感を持っていたのだが、なんだかそのお芝居じみた感じが、理不尽さやいろいろな問題も含めておかしくなってきた。
だから気まじめに対処するのではなく、楽しもうと思った。
やっと藤本ひとみさんから贈ってもらった「幕末銃姫伝」も昨日読み終えた。
幕府と朝廷に誠を尽くして仕えた挙句に、幕府からは使い捨てにされ、朝廷と新政府から賊軍扱いをされた会津藩の武士とその妻たちの姿は、何度も涙せずにはいられない気高い魂の物語だった。
それは祈りに満ちた悲劇であり、その祈りの先の未来へと希望と紡ぎだす美しさと強さの言葉が描かれていた。
それに比べると、会社でのサラリーマン武家社会の物語は、人が殺しあわない分、悲劇ではなく喜劇になる。
それはやはり歴史の進歩と呼ぶべきか。
とはいえ、いまもこの惑星では、戦争、殺人、物理的、心理的、経済的、さまざまな形の暴力が続いている現実を忘れることもできない。
日本は、この惑星で果たすべき大きな役割がある。
その意味では、そろそろこの日常の喜劇はほどほどにして、もっと大切なゲームに私たちはエネルギーを投入するときだと思う。