物理学の基本単位が質量gであったり、エネルギーJ(ジュール)であったりするが、これは物理量であり、絶対的な量である。それらの絶対的に計測された量を元に、物理学は客観的な科学として成り立っている。
その意味で経済学の基本単位はお金である。
経済学はお金を基本単位として価値を計測している。一見、お金は数字であり、絶対的な量に見える。
しかし実際には、市場で同じ1Kgの金の価格が常に変動しているように、お金は絶対的な単位ではなく相対的なものでしかない。
経済学は相対的な単位を元に成立していて、絶対的な単位を元にしてできている自然科学とはまったく違うしろものであることを理解する必要がある。
この経済学というレンズを通して実際の経済を観察すると1kgの金の価値が変動しているように見える。
こういうけったいなシロモノが経済学である。
けったいな経済学は一旦脇において、実際の経済について考えてみよう。
経済の基本は何か。分業である。すべてのモノ、すべてのサービスは、さまざまな分業の網の目の中で作られ、流通している。そして分業こそが私たちの社会の豊かさを実現している。
分業の本質が意味することは何か。
すべての人が自分以外の人のために働いているということである。
分業とは利他的な行為の連なりだ。
客観的な事実として、経済活動は分業という私たち全員の利他的な行為によって成立している世界なのである。
しかしその客観的な経済的活動と私たちが日々体験している経済社会の実感は異なっている。
私たちが経済学というレンズを通して経済を見るように条件付け、もっと端的に言えば洗脳されているからだ。
近代経済学の父であるアダムスミスは、この分業を自己利益のために行っていると解釈した。
近代経済学は、「人間は自分の利益を最大化することだけを考える合理的なエゴイスト」であることを前提に組み立てられている。
しかしそう解釈しているのはだれか。
それはエゴそのものだ。エゴがエゴの世界観によって客観的世界を解釈している。
私たちは、日々自分たちが行っている利他的な分業による経済活動を、「利己的な動機で人は経済活動をしている」というエゴのレンズを通して見て、体験している。
私たちは利他的な経済活動をリアルに行いながら、近代経済学というレンズを通して「利己的でだれもが限られた資源を奪い合っている」ヴァーチャルな経済世界に生きている。もっと露骨にいうならば、ヴァーチャルな世界に集団的に洗脳され、組み込まれている。
その姿は、リアルな世界から遮断されて悪夢を見ている夢遊病者のようではないか。
経済学を通して見ている世界がMatrixなのだ。
1929年に起きたニューヨーク市場の株価の大暴落に始まる大恐慌も、リーマンショック後の世界経済の不況も、ギリシャのデフォルト騒ぎも、すべてはお金に基づいて組み立てられた「経済」の中でつじつまが合わなくなったというヴァーチャルな矛盾、破綻である。それは実際の経済活動、つまり人々の日々の利他的な労働による分業活動には何も関係ないし、影響を受ける必要もないのだ。
しかし現実には、利他的分業によるリアルな経済活動よりも「お金」に基づくヴァーチャルな「経済」を維持し、死守することが優先されるために、リアルな経済活動はヴァーチャルな「経済」の犠牲にされ、その結果、多くの人が多大な苦しみを受けている。
どこまでも貪欲であり、自己利益を最大化するエゴを前提にしたヴァーチャルな「経済」を優先するのか、分業という利他的な労働によって成立しているリアルな経済活動を優先するのか、我々には選択肢があり、選択できるのである。
ヴァーチャルな「経済」こそが何があっても死守しなくてはならない、命より大事なものであり、それが壊れれば大変なことになると、我々はずっと洗脳されて来たし、日々、洗脳され続けている。
しかし毎日の経済ニュースや解説を聞いて、なんだかわかったようなわからないような気にならないだろうか。
わたしたちは、人のことなどどうでもよくて自分さえよければいいというそんな人間なのだろうか。
そのことを自問してみるといいと思う。
そしてわたしたちの答えがそうではないというのならば、私たちが日々行っている利他的な分業による経済活動を正確に把握できる本当の経済学を、他の自然科学と同じように事実観察、計測、実験等によって発展させることができるはずだ。