ルパート・スパイラの言葉の問いかけによって起きる気づきがすごい。
「いまここにいる」
そのメッセージを聞いたことは何度もあるが、彼の問いかけを聴きながら、自分の体験にその問いを向けると、実はわたしたちは「いまにいる」ことしかできないという単純な事実が浮かび上がる。
10年前も、3年前も、昨日も、そして1時間前も、10秒前も、いつもわたしたちは「いまにいる」。
ではその10年前、3年前、昨日、1時間前、10秒前の「いま」はいまこの瞬間の「いま」と違っているだろうか。その問いを、自らの存在に問いかけるとき、すべての「いま」は同じ「いま」で、いつも「いま」しかないことに気づく。
頭の中では、過去があり、いまになり、そして未来へと向かうという「時間」という考えがある。
しかし実際にわたしが体験しているのは「いま」の連続である。「いま」が途切れることなく「いま」を体験している。
「時間」という考えはあるが、実際に体験しているものは「いま」だ。
しかし「時間」という概念で、実際の体験の上に「過去ー現在ー未来」というストーリーの押し付けている。それは「心理的な時間」だ。実在ではない。
実在は、「いま」が始まりもなく、終わりもなく、「いま」がある。
同じようにわたしたちは「ここ」しか体験していないことに気づく。
ここからどこかへ至るという「空間」は概念であり、わたしたちが体験し続けているのは「いま」の「ここ」だ。「ここ」ではない「どこか」は実在しない。
言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、それは逆だ。
「いま」でない「時間」があるように思い、「ここ」ではない「空間」があると思っていることこそが、言葉遊びに夢中になって実在を観ていない状態だ。
わたしはいつも「いま」いて、「ここ」にいる。
わたしは「いま」であり、「ここ」がわたしである。
架空の時空間の中を移動するわたしがあるのではなく、わたしはいつも「いまここ」にいる。
時空間の中にわたしは閉じ込められているのではなく、わたしの中に時空間が起
わたしたちはそのような開かれた「わたし」であることに気づく。