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無常観と「私」

日本古来から続く無常観。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。(鴨長明『方丈記』)

すべてのものは変化する。ただ変化するだけでなく、生まれては消える。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。(『平家物語』)

すべてのものは時間という流れの中で必ず朽ちていく。その絶対的な無常の中にあわれを観ずる美意識は、私たちの中に深く根付いている。

その美意識をもう少し深く掘ってみたい。

すべてのものは変化し、朽ちていくことにあわれを感じている無常観、美意識はどこから来るのか。

無常観が成立するには、変化しないものが存在する必要がある。なぜなら、変化するものを知るには、変化しない定点が必要だからだ。

その定点こそが、無常観、美意識が生まれて来る場所であるはずだが、それは何なのか。

それは外側の世界には存在しないことを私たちは知っている。

私たち自身についても同じである。体は老い、やがて死んでいく。その死において、私たちの記憶、考え、感情も消える。

それにもかかわらず、何かがすべての変化に気づき、無常を観じている定点が私たちの中にある。

それは何か。

時間の中で変化し続ける宇宙、世界、社会、人々、そして自分の心と体を観ている不動のもの。

それらの変化し続けるものを観ている「私」という主観性。

「私」という主観性だけが、全ての変化、時間に影響されず不動のものとして存在し、すべての変化に気づいている。

私という主観性が、五感を通して「世界」を知覚し、さらに「体」を知覚し、「思考」と「感情」からなる「心」に気づいている。

「私」という主観性は、唯一、対象的世界に属さずに、それゆえ、その変化や制限、限定がとどかない超越的な実在である。

では「私」の主観性と「あなた」の主観性の関係はどのようなものなのだろうか。

私とあなたの心身は明らかに分離している。

しかしそれゆえに「私」と「あなた」の主観性も分離していると結論づけられるだろうか。

私とあなた、私たち全ては、ただひとつの主観性だけを体験しているとは言えないのだろうか。

自分の主観性以外に複数の主観性があると仮定したら、それらの複数の主観性を認識している超越的主観性があるはずだが、その超越的主観性と私たちが体験している主観性とは異なるのだろうか。

もし私たちが体験している主観性と違う超越的主観性があるとしたら、私たちが体験している主観性はその超越的主観性によって認識されている対象となり、それはもはや主観性ではないことになるが、「私」という主観性の体験の中には、「私」の主観性とは別の超越的主観性の存在を示す証拠はない。

証拠がない限り、「私」という主観性こそがすべての人の主観性と同じただひとつの主観性であるという可能性は否定できない。

無常を観じ、あわれを感じる「私」の主観性は、日本人すべての主観性そのものであり、すべての人類の主観性そのものであり、たった一つの普遍的な主観性であるという可能性、その仮説を、日々の営みの中で検証していく生き方が、ダイレクトパスと呼ばれる道である。

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