禅では、頓悟(とんご)と漸悟(ぜんご)という二つの悟りの道が語られる。
普通に考えると、漸悟の方がわかりやすい。修行し、精進し、自らの心の曇りを取っていき、最後に、一点の曇りもない鏡のような心、悟りに至る道。英語で言えば、Progressive Pathである。
それに対して頓悟は、そもそも私たちの心は鏡そのものであり、曇りがあるという思いこそが迷いであり、それを見抜くことが悟りであるという道。英語では、Direct Pathと呼ばれる。
私は、1988年にインドで、OSHOというグルに会い、彼の臨在の元で、私たちの心そのものは鏡であることを一瞥し、意気揚々と日本に戻ったのだが、徐々に自分の心の曇りにどこまでも気づかねばならなくなってしまった。一瞥の記憶だけが残り、悟りへの渇望が生まれ、悟りのパラドックスとでもいうような葛藤状態に入っていった。気づいた時には、自我を超越して悟りに至ろうという思いに囚われたこんがらがった自我になってしまっていた。
このややこしい自我の葛藤にがんじがらめになってしまっていることに気づいた時には、すでに遅し、OSHOは他界(1990年1月19日)していた。この葛藤から逃れることは、自我には不可能であると論理的には理解できるのだが、そうはいっても、この絶対的自己矛盾というか絶対的自我矛盾の葛藤が苦しいものだから、あらゆることを試して、その葛藤、苦しみから逃れようとした。
OSHO亡き後、さまざまなインドの聖者に会い、至福や無条件の愛をハートに感じ、心の大きな浄化や解放も体験した。さらには、シャーマンが執り行う聖なる儀式や現代的な様々なワークショップにも参加し、深い気づきや神秘的な体験、そして臨死体験のような究極の理解不可能な体験もした。
しかし、どんな素晴らしい体験によっても、この悟りのパラドックス、自我の葛藤から解放されることはなかった。日本人なのだからもっと日本的なものに目を向けた方がよいのかもしれないと内観や神道も少しかじったが、結局、どんなによい体験をしても自我の葛藤に舞い戻ってくるのは同じだった。
悟りは自分では達成できないということを、論理的にだけではなく体験的にも徹底的に受け入れざるしかなくなっている時に、あるインドの聖者の教えがこころに突き刺さった。
「悟りは自分で達成できるものではありません。悟りは与えられるものです」
自分の20年近くに及ぶ探求を振り返ってみて、OSHOの臨在の元での悟りの一瞥も、他の様々な至高体験や解放体験や神秘体験も、自分の力で達成したのではなくただただ起きたことだった。
その聖者の教えは、自分の体験に照らし合わせてみて、心に響くものばかりだった。
「苦しみから逃げていることが苦しみです」
「何かになろうとすることが苦しみです」
「葛藤とは、あるがままのものとあるべきものとの間の葛藤です」
「悟りとは、あなたが自分では悟ることはできないと徹底的に打ちのめされることそのものです」
そして、その聖者は、「全人類の意識を進化させる」ことをミッションとして宣言していた。
それから10年、その聖者の元に通い続けた。最終的に、悟りは頓悟として、恩寵として与えられるものだが、そのために漸悟の道を歩み続けることが必要であり、また自分にできる最善のことだと思っていた。そして同時に、それは全人類の意識の向上、その結果による世界平和と美しい新世界の出現に貢献できることだと思っていた。
こう書いていると、オウム真理教の信者とまるで違わないではないかという思いが湧いきた。幸いインドの聖者とその組織は、美意識があり、平和的であり、知的であったし、オープンだった。何の戒律も命令もなく自由だった。世界中からセレブや有名人、著名人も訪れていた。そう言う意味ではオウム真理教とは全く違ったし、教えのレベルも断然違っていた。とは言っても、客観的な結果は全く違っているにしても、その師と弟子の心理的な関係のあり方という本質においては何も変わらないととも思う。もう一歩踏み込めば、それは、ほとんどすべての組織宗教においても同じであるとも言えるが、話が別のテーマへと拡散してしまうので、ここではこれ以上語らない。
ぼくが払った唯一の代償は、コースに参加する参加費用だが、それはこの資本主義社会では当たり前のことだった。ただ10年間のうちに、インドの経済発展とそれにともなうインフレを考慮しても高騰していく参加費の額が、そこに通う足を止めさせてしまった。コストパフォーマンスというこれもまた資本主義社会で当たり前の感覚が、ブレーキをかけさせた。
10年間の間に、さまざまな強烈な体験や素晴らしい体験をしたが、ぼくは永続する絶対的なものを求めていた。というよりその絶対的なものを求めてやまない自分から解放されることを切望していた。
頓悟と漸悟というテーマに戻ると、漸悟という道を歩む限り、道が終わることはないということだ。探求が終わるのは、頓悟においてのみだ。自分の心の曇りを取りさることで鏡の境地に至ることはない。曇りを取ろうとすること自体が心の曇りを生み出すからだ。というより、心そのものが曇りだ。
しかし漸悟を自己成長の道と捉えると、それはそれで道である。なぜなら自己成長は喜びだから。喜びが続く限り、漸悟の道は道として延びていくのだろう。
ただ永遠なるもの、真理を求めているならば、頓悟、私たちはもともと鏡そのものであり、曇りというものは迷いに過ぎないという道へ入ることになる。
それがぼくの30年の、決して人に誇れるようなものではない愚かさと失敗と迷惑ばかりの恥ずかしい、それでも自分なりに意識的に続けた探求の結論である。
30年前にこの意識的な探求の道にイニシエートしてくれたOSHO(そういう存在をカルナグルとインドでは呼ぶそうだ)とこの結論へと導いてくれた二人の先生、フランシス・ルシールとルパート・スパイラの名を最後に記したいと思います。