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新しい共通善の基礎としての非二元論

先日、ある月刊誌の編集者と話をした時に、いまや「共通善」が崩壊してしまっているという話が出た。

かつては「格差社会はよくない」「殺人はよくない」というような「共通善」が存在していたが、いまや「格差はあって当然だ」「人を殺して何が悪い」という言葉、意見が、ネット上で氾濫し、「共通善」は崩壊してしまっている。かつては「共通善」を前提に、議論していたが、その「共通善」が崩壊してしまい、議論そのものが意味を無くしてしまっている。そう彼は語った。

確かに、私たちは、「共通善」という議論の前提となるものが崩壊し、価値観が違う者同士の間で、建設的な議論が成立せず、互いにただ相手の価値観を批判、否定し合うだけの分裂した時代に生きているのだと彼の言葉によって改めて気付かされた。

それはまるで人々が異なる言語を喋るようになって互いが理解できなくなったバベルの塔の神話のようだ。いや、中途半端にお互いに意味を理解し合い、その上で反発し否定し合うのだから、バベルの塔の神話よりもタチの悪い状況かもしれない。

この「共通善」の崩壊は、人類が、「分離した自己」というアイデンティティを強化してきた歴史の最終地点に至ったことを意味しているのではないだろうか。「私」とは世界から分離し、孤立した「心身」であり、その分離した「心身」がこの世界でサバイバルする、しかもできるだけよくサバイバルすることが最も大事であるならば、そのアイデンティの行き着く先は、近代社会が前提としていた「自由、平等、友愛」等の「共通善」の崩壊であり、その結果、無秩序な社会か、超管理された社会かという二択に向かうしかないだろし、現実に、その二択がしのぎを削っているように見える。

もしその二択ではなく、新たな「共通善」が生まれ、第三の道を人類が歩めるとしたら、それは、改めて「私とは何か」という問いを新たに問い、「私」とは世界から分離、孤立した「心身」なのか、それとももっと違う何かなのかというアイデンティティの探求を必然的に行う必要があるのではないだろうか。

新たな「共通善」は、その「私とは何か」というアイデンティティの変化から生まれるし、その変化からしか生まれてこないのではないだろうか。

「私」とは有限である「心身」ではなく、有限な「心身と世界」に気づいている限定のないリアリティであるという非二元論的アプローチの中に、新たな「共通善」の生まれてくる可能性があり、そこにしか実際に可能性はないのではないだろうか。

「私とは何か」と問い、探求することが、哲学的な問いであると同時に人類にとって死活的な問いであり、探求である時代を私たちは生きているのではないだろうか。

それは何だか深刻な悪いニュースにように聞こえるかも知らないけれど、よいニュースは、その問いと探求から生まれてくる「共通善」は、自然で軽やかで喜びと自由とユーモアに溢れた愛である生命そのものではないだろうか、ということである。

だからやって損はないとぼくは思っている。

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