長い間瞑想を続けて来たけれど、最近、最初の一歩が間違っていたことに気づいて来た。
それは、瞑想をするのは誰だ、という問いに尽きる。
瞑想は解脱の方法だとすると、そこには暗黙のうちに解脱されるべき私が前提として忍び込んでいる。そして解脱とは世界から分離した私からの解放である。
かつて埴谷雄高という孤高の戦後文学者は、「自同律の不快」について長々と語った。それは、自分が自分であることが不快であるということ。それはブッダが苦といったことと同じであり、世界から分離した自分こそが苦の原因であるということだろう。
それゆえに解脱、私からの解放という欲望が生まれる。
この欲望は、分離した自分を前提にしてしか生まれてこない。
しかし分離した自分とはそもそもあるのか、という問いが本来、この欲望の前に吟味される必要があった。
そもそも世界から分離した自分とはあるのか。
瞑想をして悟りたいのは誰なのか。