「動物として扱われたため、オーストラリア、米国、アフリカ、アジアの先住民たちは、人間としての権利を認められなかった。植民者は先住民の土地を「空白の大地」ー人間が住んでいない、空白の、無駄になっている、使用されていない土地ーとして不正に奪うことができた。使節団は、帝国からの市場要求を満たすために、世界中の資源の軍事的略奪を正当化する道徳を持っていたのだ。このようなわけで、ヨーロッパの男性は、侵略を「発見」、海賊行為と窃盗を「貿易」、殺戮と奴隷化を「文明化の使命」として叙述することになるのである。
科学的な任務は、自然への権利を否定するための宗教的な任務と手を取り合って発展した。科学革命の出現に伴う機械的世界観を持つ哲学の隆盛によって、全ての生命維持に必要な自己再生と自己組織化の概念は破壊された。近代科学の父と呼ばれるフランシス・ベーコンにとって、自然はもはや母ではなく、攻撃的な精神によって征服されるべき女性に過ぎない。キャロライン・マーチャントが指摘するように、「生きている養育的な自然」から、「不活性で死んだ操作可能な物体」への概念の転換は、成長を遂げている資本主義の搾取命令に著しく適していたのだ。
この宇宙が霊魂に満ちあふれた有機的な存在であると言う考え方を除去する事は、人間にとって自然の死を意味した。これは、科学革命の最も大きな影響であった。この考えの下では、自然は外部からの力(内在する固有のものではなく)によって動かされる、死んだ不活性粒子系に過ぎないと考えられる。そのため、機械的な枠組み自体が、自然界の操作を合理的なものと位置づけることとなった。さらに、機械的な秩序を作り出すことが権力に基づいた価値の概念的枠組みとして都合の良いものだった。その権力は、商業資本主義の邁進する方向と完全に両立したのだ。
農業の「緑の革命」が掲げるパラダイムは、再生可能な栄養循環を改め、工場から購入された化学肥料のインプットとその農業商品のアウトプットと言う直線的な流れを作り出してしまった。肥沃である事は、もはや土壌の性質ではなく、化学物質の性質となった。緑の革命は、化学肥料を必要とする「脅威の種子」を基軸としており、土壌にリサイクルするものは生産されなかった。
ここでも、大地は「空白の容器」に過ぎないと見なされたのだ。この場合、灌漑用水と化学肥料の激しいインプットを受ける容器である。豊かな農業は、工業生産された「脅威の種子」の力でもたらされるものであり、それは自然界の肥沃循環の限界を超えるものとされた。しかしながら、生態学的に行って、大地と土壌は空白ではない。そして、緑の革命に類似する様々な農業改革は、種子肥料パックの出現として露呈されただけではなかった。土壌の病気と微量栄養素の欠乏も起こった。このことは、肥沃な土壌を保つためには、未知の要素が必要であることを示している。
そればかりではなく砂漠化も起こった。これは、市場目的だけの農業によって土壌肥沃循環が壊されたことを意味している。
緑の革命は、大地は不活性であると言う仮定に基づいている。さらに、バイオテクノロジーの革命は、種子からその稔性と自己再生能力を奪い取る。このような種子の植民化とは2つの主な方法で行われる。2つの方法とは、技術的な方法と所有権を行使する方法である。」
ヴァンダナ・シヴァ『バイオパイラシー グローバル化による生命と文化の略奪』