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破壊だけの自然科学

岡潔と小林秀雄の対談『人間の建設』を読んでいたら、岡潔の非常に興味深い一節に出会った。

その節は、破壊だけの自然科学という小見出しがつけられていた。以下、その節の一部を引用する。

一人でも多くの人に読んでもらいたい。

アインシュタインのしたことについて一番問題になりますのは、それまで直線的に無限の速さで進む光というものがあると物理で思っていたのを、否定したのです。それを否定して、しかしいろいろな物理的な公理をそのまま残したのですね。ところが光というものがあると考えていたアインシュタイン以前では、そういう公理体系は近似的に実験し得るものだったのです。だから物理的公理体系だったのです。ところがアインシュタインは、在来の光というものを否定した。そうすると、仮定している物理の公理体系が残っても、実験的には確かめることのできないものに変わってしまったのです。物理的公理体系ではなくなったのです。これは何と言いますか、観念的公理体系、哲学的公理体系というようなものに変わってしまいます。そういう公理体系の上に物理学を組み上げたことになったのですね。現在はその状態です。だから数学者はそれを問題にしているのですが、現在の公理体系を再び物理学的公理体系たらしめるにはどうすればよいか、そういうことが可能かという問題があるのです。ところが、それはできそうにもない。

公理体系の上にいろいろなものを積み上げて、物理学という知的体系の無矛盾が知的に証明できただけではダメだということが、数学の例でわかっていますが、その知的に無矛盾というものを証明することが、すでに到底できそうもないこととして写っているのです。それはアインシュタインが光の存在を否定しましたから。それにもかかわらず直線という風なものがあると仮定していろいろやってますね。物理の根底に光があるなら、ユークリッド幾何に似たようなものを考えて、近似的に実験できますから、物理的公理体系ですが、光というものがないとしますと、これは超越的な公理体系、実験することのできない公理体系ですね。それが基礎になっていたら、物理学が知的に独立しているとは言えません。

何しろ今の理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾を作れたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体が全く正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというなら認めても良いのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。だから、今考えられているような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説が何かあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。大体自然科学で今できることといったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人類の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論は別にして、例えば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。私が子供の時、葉緑素がまだ作れないと習ったのですが、多分今でも葉緑素が作れない、葉緑素が作れなければ有機化合物は全然作れないのです。一番簡単な有機化合物でさえ作れないようでは、建設ができるとは言えない。

今の機械文明を見てみますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろ動力によって全てが動いている。石炭、石油。これは皆かつて植物が葉緑素によって作ったものですね。それを掘り出して使っている。ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電といっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱は、このまま掘り進んだら、すぐになくなってしまいそうなものですね。そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力電気だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのも難しくなります。つまり今の科学文明などというものは、ほとんど皆借り物なのですね。自分で作れるなどというものではない。だから学説が間違っていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設は何もできません。いかに自然科学だって、少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変わるでしょう。

こういう事はニュートン力学あたりに始まるのですが、ニュートンは、地球からいうなら太陽の運動、その次は月の運動、それぐらいを説明しようとして、ああいうニュートン力学を考えだし、そこで時間というものを作って入れたのです。ああいう時間というものだって、実在するかどうかわからないが、ともかく、天体を見てああいうことを考えてるうちに、地上で電車が走るようになったという風で、面白い気がします。しかしその使い方は破壊だけとは言えなくても、少なくとも建設ではない。機械的操作なのです。

しかし、人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によってはじめに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それは面白いことだろうと思います。人類がこのまま滅びないで済んだら、ずいぶん弊害が出ましたが、自然科学によって観察し推理するという事は少し知りましたね。それを人の心に使って、そこから始めるべきで、自然に対してももっと建設のほうに目を向けるべきだと思います。幸い滅びずに済んだらの事ですが、滅びたら、また二十億年繰り返してからそれをやれば良いでしょう。現在の人類進化の状態では、ここで滅びずに、この線を越えようと注文するのは無理ではないかと思いますが。しかし自然の進化を見ていますと、やりそこないやりそこなっているうちに、何か能力が得られて、そこを超えるというやり方です。

ともかく人類時代というものが始まれば、その時は腰を据えて、人間とは何か、自分とは何か、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれは面白いことだろうなと思います。

大きな問題が決して見えないというのが人類の現状です。物理で言えば、物理学的公理が哲学的公理に変わったことにも気づかない。

岡潔・小林秀雄『人間の建設』

ますます科学文明の破壊が大きくなっている現代こそ、岡潔氏のこの言葉の深い意味が強く迫ってくる。

ただ岡潔氏の日本、日本人論には、極端に走りすぎるところがあるということも付け加えておきたい。

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