ぼくはOSHOの弟子ですが、その弟子であることのトラウマがあります。
OSHOは1990年1月19日に肉体を離れました。
何度か書いていますが、その時、最後に弟子達へ残した言葉が二つあります。
ひとつは、わたしの夢はおまえたちに託した。
もうひとつが、わたしがアメリカに殺されたことをおぼえておきなさい。
OSHOは1980年半ばにアメリカに移りました。オレゴン州の砂漠地帯に、彼と彼らの弟子は移り、そこでエコロジカルな自給自足の都市を短期間のうちに作りました。発展し、大勢の人間が世界中から集まってくるうちに、FBI,CIAに狙われ、その一触即発の危機的な状況の中でコミューン内での閉ざされた組織の権力的腐敗も起こりました。アメリカ政府は、その機に乗じて、OSHOを逮捕状なしで、逮捕し、その後、2週間近く、アメリカ国内の刑務所を連れまわし、その後、、無罪ではあるが、移民法違反の罪で国外退去という奇妙な司法取引で、釈放され、アメリカを出ました。
先進的な新しい実験都市、ラジニーシプーラムは実質的に破壊され、廃墟となりました。
OSHOは、そのとき、刑務所の中で、放射線にさらされ、タリウムと思われる毒を盛られたようです。
それ以来、OSHOは急激に体調を崩していき、59歳で亡くなります。
(様々な証言、取材、調査によってこのあたりの詳しい内容を調べた本「OSHO アメリカへの道」という本があります。決して読みやすい本ではないのですが、興味のある人がいれば、手元に余分があるので、プレゼントすることは可能です。その場合は連絡をください)
アメリカの権力者によってOSHOが殺されたことに対して、ぼくの中には、まだ十分に向き合えていない心の痛みがあります。
その痛みととことん向き合う必要があるなあ、と思いました。
というのも、OSHOがアメリカから国外追放にあったあと、21カ国から入国を拒否され、インドに戻り、死ぬまでいたプーナのアシュラムが、現在、アシュラムを運営している一部の人間によって、乱暴に扱われているからです。
入場料が何十倍にも値上がりし、OSHOの写真がアシュラム内からどんどんなくなっていきました。かつてOSHOがただ存在することによって慈愛と至福と解放のエネルギーをあまねく注いだ大理石の座が破壊され、雨ざらし状態になってしまいました。OSHOへの愛を歌う歌が禁止され、OSHOの誕生日や悟りを開いた日や肉体を離れた日を祝うことが禁止されました。それなのに、クリスマスを祝うイベントが、結局、実施はされなかったが、企画されたという話も最近知りました。
そして、それら一連の処置は、OSHOの名のもとに行われているのです。
「OSHOは個人崇拝を否定していたから、アシュラムからOSHOの個人崇拝と思われかねない要素はなくしていく。すべては、生前OSHOから受けた指示によって進められている」という一見、筋の通っている説明で、限りなく精妙で美しいものが、17年かけてじわじわと破壊され続けています。
うまくはいえないのですが、アメリカによってOSHOが殺されたことでできたトラウマと自分が十分に向き合っていないことと、この進行する破壊は無縁ではないと思うのです。
単純に言えば、どちらに対してもぼくは「見て見ぬふりをして、はぐらかしている」のです。
かつて、ぼくは、OSHO関係のMLなどで、彼ら運営者のことを批判したこともありましたが、いつの間にか諦めて、この問題については口にしなくなっていました。いまの自分は、アシュラムに関してどうアプローチしていいのか解りません。
しかし、少なくとも、この自分のトラウマから逃げずに向かい合おうと思います。
どうしていいのかわからないからといって、できることをしない理由にはならないということです。
最近OSHOの事を思い出し、YOUTUBEで彼の説法を聞いてました。
確かに後の人間達…彼を邪魔と思う人間達によって破壊されてしまう事実は悲しいですね。ブッダのときもキリストの時もきっと同じような事があったんだと思います。
どんな破壊活動、排除活動が進もうが、みんなの心に残る彼の教え自体は破壊なんて出来ないんですよね?
僕はそう信じてます。
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瞑想の中で 世間と出会い 別れ 一人になると
その時始めて師は
入っておいでと 言ったそうです。
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道さん
はい、OSHOが破壊されることはあり得ないですよね。彼が体現したものは、肉体も時間も越えているものですよね。
友人さん
すばらしい言葉をありがとうございます。
おっしゃる通り、瞑想の中でまだぼくは十分に、世間、社会と出会っていないという自覚です。
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三木さん
ご無沙汰しています。多母さん本の出版検討でお世話になりました。
プーネのアシュラムが荒れてゆくことに、心がいたみますが、カタチあるものは絶えず変化していくことと、ましては心なき人の運営なればいたしかたないと感じます。
それはそれとして、OSHOの本は時とともに輝きが増して感じられます。そして多くの人の心に生き続けています。私自身、講話のCDを良く聞くようになりました。肉体をはなれていますが、OSHOはいます。
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廣田さん
ご無沙汰しております。
お元気ですけ。
コメントありがとうございます。
そうなんです。OSHOは肉体を離れて偏在しています。
だから、アシュラムという形あるものが変化していくとことへの憂いは、ぼく自身の執着ですね。
そんなことを感じていたときにちょうど廣田さんのコメントをいただき、ほんとに感謝です。
多母さんはお元気でしょうか。
昨年、多母さんと縁がある鬼丸くんと会いましたよ。
また廣田さんとお会いしたいです。
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トラウマの解消は
過去に起こった現実に正面から向き合うことではなく
その現象を引き起こした「フレームワーク」そのもの(相対性の全体)を越えられたときに解消できるのではないでしょうか。
(CIAとOSHOは対極的な存在ではありますが、あの時点では
「同じフレームの中」で対極に位置していたものだと思います。)
これはOSHOを批判するものではなく
あくまでも人間の進化のプロセスの過程だと思っていただければ幸いです。
だからこそ、タオさんは現在、ディクシャから学びを得ているのだと思いますし、その意味では、またいつかディクシャを越えていく時がくるのだとも思います。
OSHOにもディクシャにも感謝ですね。
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ドッキー
その通りですね。
ありがとう。
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