「我思うゆえに我あり」
デカルトは、まず我がある、その我が思考を行うので、我がある、と主張している。
これって、思考する主体があって、それが我であると、「我」を定義をしているだけだよね。
で、そもそもその定義って本当だろうか。
本当にわたしたちの体験に適合している定義だろうか。
思考する主体が、文法的には第一人称と呼ばれ、日本語では、私、僕、我と呼ばれている。
日本語では、主語が度々省略もされることもあるが、それはそうであるのだけど。
でも、この思考する主体である主語の「私」、「我」が、本当の私や我なのだろうか。
私とは、思考を考える主体、主語である「私」「我」と同一ものなのだろうか。
私たちは、言語を習得し、いつの間にか、あるいは知らない間に、私とは考える主体、主語である「私」「我」であると思い込んでしまったのではないだろうか。
でもそれって、本当に私たちの体験とあっているだろうか。
本当の私たちは、考えている「私」「我」とは違うのではないだろうか。
なぜなら、私たちはそれらの考えと考えている「私」に気づいているからだ。
もし私たちが思考を考えている「私」そのものであるならば、私たちはその「私」に気づいてることは不可能ではないだろうか。
目が目自体を見ることができないように、舌が舌自体の味を味わえないように、皮膚が皮膚自体の触感を感じられないように。
私たちは思考を考えている「私」ではないからこそ、その考えている「私」に気づいていることができる。
というかそのように体験しているのではないだろうか。
「我思うゆえに我あり」
という主張は、私たちの実際の体験とは違って、実は観念的な主張でしかない。
その観念的な主張を私たちは盲目的に信じてきたのではないか。
私たちが、実際にいまこの瞬間体験しているのは
「我あるゆえに我あり」
という方が近いのではないか。
そのときの我とは一体何か。
私たちの体験が教えているのは、私たちは気づいている主体であるということだ。
気づいている主体は、思考に気づき、感情に気づき、五感に気づき、体に気づき、世界に気づいている。
その気づいている主体に時間はあるだろうか。
時間に気づいてはいるが、それ自身に時間はないのではないだろうか。
そこに限界、分離はあるか。
思考、感情、五感、体、世界の限界に気づいてはいるが、それ自身に限界も分離もないのでないだろうか。
私たちは、時間にも空間にも制限されない気づいている主体、気づいていることに気づいている不思議な存在だ。